福岡高等裁判所 平成8年(ラ)166号 決定 1996年9月19日
抗告人 井上信昭
不在者 井上信頼
主文
一 原審判を取り消す。
二 本件を長崎家庭裁判所島原支部に差し戻す。
理由
一 抗告の趣旨及び理由
別紙即時抗告申立書写し記載のとおりである。
二 当裁判所の判断
1 不在者が所在不明になる前後の状況については、以下のとおり加除、訂正するほかは、原審判2枚目表5行目末尾「記」から3枚目裏7行目までのとおりであるから、これを引用する。
(一) 原審判2枚目表7行目の次に改行して次のとおり加える。「(一)不在者は、前記最後の住所地の自宅において、妻えみ子、長女正子(平成5年1月25日生)、長男英一(平成6年2月1日生)、抗告人である父親夫婦と同居し、○○港を基地とする漁船○○丸(19トン、船長ほか4名乗組み)の漁船員として、東シナ海での漁撈に従事していた。」
(二) 同8行目「(一)」及び同9行目「近く」をそれぞれ削り、同裏7行目「0.399」を「0.44」と、同8行目「かけ、同人」を「かけたところ、同人が船の方向に歩き出したので、坂口」とそれぞれ改める。
(三) 原審判3枚目表5行目「○○派出所」を「○○○○派出所」と改め、同10行目「できなかった。」の次に「捜索に当たった潜水業者や地元漁協関係者の話では、遺体が港沖合に設置されたテトラポットの隙間に流れ込んだ可能性が高いが、同所を捜索するのは非常に危険であるとのことで、その海域の捜索は行われなかった。」を、同裏3行目末尾の次に「その後、今日に至るまで、不在者の生死は全く不明である。」を、同6行目「30万」及び「40万」の次にいずれも「円」をそれぞれ加える。
2 そこで、検討するに、民法30条2項にいう「死亡ノ原因タルヘキ危難」とは、地震、火山の噴火等の一般的事変のほか、海中への転落、猛獣による襲撃等の個人的遭難を含むものと解すべきところ、不在者が海中に転落したことを直接証明する証拠はない。
しかし、前記認定のとおり、不在者は、坂口が○○丸に乗船する直前、同人に声をかけられて船の方向へ歩き出していることからすれば、不在者のその後の行動としては、船の乗降梯子を降り始めたか、少なくとも、梯子の付近にまで来た蓋然性が強い。そして、当時、不在者はかなり酔っていた上、船へ降りる梯子は急角度になっており、岸壁と船の甲板の高低差もかなりあったことにかんがみると、不在者が、乗降梯子又はその付近の岸壁から足を滑らせて海中に転落する危険性は十分あったものということができる。
また、前記認定のとおり、海上で発見されたサンダルは、不在者と同居していた同人の父母により、不在者が履いていた物であると確認されているところからすると、断定はできないにせよ、当時、不在者が履いていたサンダルである蓋然性が極めて高いことは明らかであって、このことは、不在者が、海中に転落したことについての高度な裏付けとなるものである。
さらに、前記認定のとおり、不在者は、負債もなく、夫婦間の折り合いは良好で、自らの意思によって所在不明となる動機は全く見当たらないし、当時、約1か月前に妻が長男を出産していることにもがんがみると、不在者が、家族を残して出奔する可能性も低いものといえる。そして、一件記録によれば、不在者の生命保険の加入日は、不在者の所在不明から2年半以上前の昭和57年11月19日(○○生命保険相互会社、死亡保険金2,000万円)及び平成3年8月1日(○△生命保険相互会社、死亡保険金5,000万円)であり、生命保険の加入状況についても、特段、不審な点は認められない。
なお、不在者の海中への転落音や悲鳴を聞いた者はいないが、不在者は、当時、かなり酔っており、海中に転落したからといって必ずしも悲鳴を上げるとは限らないし、先に○○丸に帰船した坂口は、船室の中にいたのであるから、転落音が聞こえなかったとしても、格別、異とするには当たらない。そして、警察や所属漁協によって大規模な海中捜索がなされたにもかかわらず、不在者の遺体は発見されていないが、捜索は、危険なため、防波堤のテトラポットの隙間にまでは及んでいないところ、同所に遺体が流されたため、発見に至らなかった可能性も少なくない。
以上の諸事情によれば、不在者は、○○丸に帰船する際、乗降梯子又は付近の岸壁から誤って海中に転落したものと推認することができる。
3 そうすると、不在者は、危難が去った平成6年2月25日から1年以上その生死が分明でないから、抗告人の本件失踪宣告の申立ては理由があり、家事審判規則に基づいて、公示催告の手続を経た上で失踪宣告をなすべきである。よって、抗告人の本件申立てを却下した原審判は不当であるからこれを取り消し、本件を原裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 高升五十雄 裁判官 古賀寛 原啓一郎)
(別紙)
即時抗告申立書
福岡高等裁判所 御中
長崎家庭裁判所島原支部、平成7年(家)第307号、失踪宣告申立事件について、同支部家事審判官がした平成8年7月2日付の却下決定(審判書の受理日、同月4日)には不服があるので即時抗告の申立を行なう。
平成8年7月17日
抗告人等の表示(編略)
抗告の趣旨
1 原審判を取り消す。
2 本件を長崎家庭裁判所島原支部に差し戻す。との裁判を求める。
抗告の理由
一 原審判は、
1 不在者が帰船に際し乗降梯子から誤って足を滑らせるか岸壁から転落するなどして海中に転落し、その結果、同人が死亡した蓋然性が極めて高いとの抗告人の主張に対し、抗告人主張の事実とは必ずしも合致しないか却ってこれと矛盾抵触するものが少なからず認められるとして、
<1> 2月25日午前9時50分頃、○○丸の係留場所から150メートル先の海上に浮かんでいるのが発見された茶色ゴム製サンダル片方は、不在者の父母により同人が家を出るときに履いていたものであると確認されてはいるが、発見されたサンダルに何らかの特徴があった事実は証拠上特に窺われないから、これを不在者のものと断定するだけの根拠には欠ける。
<2> 不在者が(同僚の坂口哲太漁船員と一緒に)帰船した際の態度は、先行の乗組員(坂口哲太漁船員)に続いて直ちに乗船しようとするものではなかったとも受け取れること、
<3> (坂口哲太漁船員と一緒に帰船した際)不在者が海中に転落したものとすると、その場所は○○丸の近くで、乗組員中少なくとも坂口は起きていたはずであるのに、不在者の転落音や悲鳴を聞いたものがいないこと
<4> 警察当局や所属漁協によって海中を含めた大規模な捜索がなされたにも関わらず、不在者の死体や片方のサンダル以外の遺留品が発見されていないこと(もっとも、捜索は防波堤のテトラポットまでは及ばなかったので、捜索が開始されるまでに同所の隙間に死体が流されたものとすれば発見されないこともあり得る)などの点を指摘し、
2 確かに不在者が帰船に際し海中に誤って転落した可能性があることは明らかであるものの、これを裏付けると思われる事実は必ずしも決定的なものとはいえず、別の理由により所在をくらましあるいは全く別個の原因により帰船することができなくなったという可能性を証拠上排斥することは困難である。
3 従って、不在者はいったん坂口(坂口哲太…不在者が乗り組んでいた漁船○○丸の同僚漁船員)と共に○○丸が接岸している岸壁に戻ってきたものの、同人に続いて乗降梯子を伝って帰船しようとしたかどうかは明らかではなく、その後の足取りは不明であると評価される。
そうすると不在者が海中に転落したかどうかが不明である以上、危難に遭遇したことの証明がないことに帰するから、本件申立は失当であるとして却下した。
二 前記一1の原審判の判断に対する反論
1 まず、発見された茶色ゴム製サンダル片方は、不在者の父母のみならず、不在者の妻、不在者が乗り組んでいた○○丸同僚漁船員らが、不在者のものであることを確認しているのであり、『発見されたサンダルに何らかの特徴があった事実は証拠上特に窺われないから、これを不在者のものと断定するだけの根拠には欠ける。』との原審判の判断は、不当である。
2 次に、不在者が帰船した際の態度は、先行の乗組員に続いて直ちに乗船しようとするものではなかったとも受け取れることと指摘している点は、確かに指摘のとおりであるかもしれない。
しかし、抗告人は、不在者が先行の乗組員に続いて直ちに乗船しようとした際に、転落した可能性とともに、後刻、不在者が単独で帰船しようとした際、岸壁もしくは乗降梯子から足を踏み外し、海中に転落し、その結果、同人が死亡した蓋然性が高いことを主張しているのであり、右原審判の指摘は、抗告人主張の事実と、合致しないとか、矛盾抵触するとか言えないものである。
3 不在者が海中に転落したものとすると、その場所は○○丸の近くで、乗組員中少なくとも坂口は起きていたはずであるのに、不在者の転落音や悲鳴を聞いたものがいないとの指摘は、不在者が当時かなり酔っていたことなどから、意識朦 朧として悲鳴をあげることができるような意識状態ではなかったと推測する方が自然かつ合理的であるし、転落音にしても、当時大潮の引き潮状態であったことからすれば、それほど大きな音がしなかったので、坂口には聞こえなかったとも考えられるし、また、不在者が坂口と一緒に帰船した時刻から暫くして、本件危難に遭遇した蓋然性も極めて高いのであり、その場合、不在者の転落音や悲鳴を聞いたものがいないとしても、何ら不自然ではない。
4 警察当局や所属漁協によって海中を含めた大規模な捜索がなされたにも関わらず、不在者の死体や片方のサンダル以外の遺留品が発見されていないという原審判の指摘に対しては、それ故にこそ、抗告人は、危難失踪宣告の申立を行なっているのであり、原審判がいみじくも、『もっとも、捜索は防波堤のテトラポットまでは及ばなかったので、捜索が開始されるまでに同所の隙間に死体が流されたものとすれば発見されないこともあり得る』と指摘しているように、上記のような海中を含めた大規模な捜索がなされたにも関わらず、不在者の死体が発見されなかったということは、防波堤のテトラポット隙間に死体が流された可能性が極めて高いことを物語っている。なお、テトラポット隙間を警察当局等が捜索しなかった理由は、同所を捜索すると捜索者の生命・身体に極めて高い危険が伴うことによる。
三 原審判は、確かに不在者が帰船に際し海中に誤って転落した可能性があることは明らかであるとしながら、遺留品であるサンダル片方の証拠価値を意図的に極めて低く評価し、これを裏付けると思われる事実は必ずしも決定的なものとはいえないと断定し、また、不在者に負債がなく、夫婦間の折り合いも良好で、失踪1ヶ月前には妻が長男を出産していること、長女の初節句をまもなく迎えることなど、不在者の失踪原因が本件危難以外に考えられないにもかかわらず、本件危難以外の別個の理由、原因により帰船することができなくなったという可能性を証拠上排斥することは困難であると判断している。同判断が不合理かつ不自然であることは明白である。
四 確かに、原審判が指摘するとおり、不在者が、いったん坂口と共に○○丸が接岸している岸壁に戻ってきたものの、同人に続いて乗降梯子を伝って帰船しようとしたかどうかは明らかではなく、その後の足取りは不明である。
しかし、関係各証拠を総合的かつ合理的に判断すれば、不在者が酩酊していたことなどにより海中に転落し、大潮が原因で上げ潮も強く、防波堤のテトラポット隙間に死体が流されるなどして、その死体の発見が出来なかったと考える方がより自然であろう。
目撃者等がない場合でも、『どのような個人的な遭遇に遭ったものかは不明であるが、…、不在者は、余人には知り難い何らかの死亡の原因となるべき-危難に遭遇したものと認めるのが相当』として危難失踪を認めた審判例もあり、本件却下決定は取消を免れない。
不在者の収入より生計を営んでいた抗告人を含むその家族は、危難失踪が認められないことにより、船員年金等の公的受給も受けられず、その生活が困窮しつつある事情にも、ご配慮願いたい。
なお、原審における抗告人(申立人)の意見書及び報告書・上申書を援用する。